Saomix elements通信

化学に出てくる118の元素を、少女に擬人化してお届け!

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「電車男」-見たことのない映画の考察 

 今回は、映画「電車男」についての考察を書こうと思います。ぼくは、映画の感想を書くのははじめてです。しかも、ぼくは電車男の映画を見たことがありません。なぜ、見たこともない映画についての考察を書くかというと、あるひとのブログで、電車男の感想を読んだのがきっかけでした。ぼく自身も電車男の映画自体には興味があって、見たひとはどんな感想を持ったかネットで見て回ったら、おどろくころに映画に対する肯定的な感想が圧倒的に多い。ネット上で肯定的な意見が大多数を占めるというのは、ぼく自身はあまりなかったのでおどろいていました。で、たまたまあるブログを訪れたら、そのブログでは、この映画としてはめずらしく、映画に対する否定的な意見が書かれていました。「めずらしいな、中身も説得力がある」と思いながら読んでいると、コメントがそのブログを叩いていました。そのブログを読んで考えたこと、それからそのブログに対する弁護の気持ちもこめてコメントを考えていたら、長くなってしまった。今日のブログの6割くらいは、向こうで書いた文章をそのまま持ってきています。長々と書いてしまった後ろめたさがあり、これは自分のブログできっちり載せ直すのが礼儀なんじゃないかと思い、載せることにしました。

 映画「電車男」考察のキーポイントは三つです。ディテールの違和感、「電車男」を見る視点、そして「ふたつの電車男」です。

 ディテールの違和感ですが、たとえば電車男です。感想を読んだ限りでは、電車男は挙動不審のきらいがあるようです。いくらおたくでもそこまで挙動不審ではない、という感想をあちらこちらで読みました。また服装や、部屋の中のフィギュアという点でも、「おたくという記号」がいかにもと言わんばかりに列挙されていると感じます。いくら2ちゃんねらーでも、たとえば「キボンヌ」や、「がんがれ、漏れ」など、実際の生活で2ちゃん用語をひんぱんに使ったりはしないでしょう。
 
 つづいて映画を見る視点ですが、ぼくが今回想定したのは「住人の視点」と「電車男の視点」です。まず、住人の視点から見た場合ですが、この場合は見方がわかりやすいと思います。おたくである電車男がエルメスと結ばれるよう応援すればいい。基本的には物語のはじめから終わりまで、同じスタンスで見続けて問題ないと思います。ところが、これを電車男の視点で見ると、事態がややこしくなります。まず、自分と同じ側の視点である電車男が、なんかおかしい。同様にエルメスの言動にも違和感を覚える(これは別のサイトで、エルメスの言動が不自然であるという主旨の文章を読んだので)。彼らが三人称(彼、彼女)だったらそれほど気にしなくて済むでしょうが、一人称と二人称(わたし、あなた)だとこうした違和感がクローズアップされることと思います。さらにスレッドの住人に対してもそうです。彼らは、それぞれが素性のまったくわからないひとたちなので、もしそれを忠実に再現しようと思ったら、たとえばエヴァンゲリオンに出てくるゼーレ幹部(姿形は見せず、"SOUND ONLY"とだけ表示される)あたりが適当でしょう。
 
 しかし、もしぼくが監督だったら、一定の観客に違和感を与えるのを覚悟の上で、こうした演出をしていたかもしれません。それは、明確な演出をすることによって多くのひとに楽しんでもらえる「わかりやすさ」です。
 
 「これはただの恋愛ではない。おたくである電車男が、包容力がありちょっと積極的なエルメスへの恋を実らせる話だ。しかも電車男は、インターネットの掲示板にいる見ず知らずの人々に助けられて恋愛を成就させる。これは愛と感動のノンフィクション巨編なのだ。この物語を見せるためには、電車男が「おたく」であることが明確でなければいけない。エルメスも、ただの女性ではなく、包容力がありちょっと積極的な人物であることを描いていく。インターネットの掲示板にいる見ず知らずの人々、というのがどんな概念なのかも提示していく。これは電車男の話なので、実際にネットで出てきたネタやせりふも盛りこんで…。」
 
 このように、みんなが楽しめる作品づくりという理由で、わかりやすく、しかしどこか違和感のある演出をしたのかもしれません。しかし、このような演出をしたもう一つの仮説が、ぼくの中にはあります。それは、シニカルな意味を含めてこのような演出をしたということです。現在、電車男の話は美談として社会に広まっている感がありますが、「中の人などいない説」など、一部では電車男の話に対して懐疑的な考えを持つひともいます。社会に広まっているこうした感覚に対して一石を投じるために、わざとわかりやすく、しかし違和感のある演出をしたとも考えられます。もちろんぼくは映画の制作者ではないので、なにが本当なのかはわかりませんが。

 さて今度は目先を変えて、「ふたつの電車男」の話です。映画では、登場人物としてスレッドの住人が出てきますが、彼らは重要なことを示唆していると思います。彼らが登場することによって、ぼくたちと住人は切り離され、そこには「観る電車男」ができあがっています。一方、誰もが書きこみ可能な掲示板の中では、ぼくたちと住人が一体となった「参加する電車男」の世界が完成しています。2ちゃんねるやまとめサイトを訪れたひとには「参加する電車男」が真実であり、書籍や映画しか触れていないひとたちにとっては「観る電車男」が真実であることでしょう。大切なのは、このいずれもが本当のことであり、どちらかの電車男が本当でどちらかの電車男がにせものというわけではないということです。ここで必要になってくるのは、ふたつの「電車男」をつなぐ共通の文脈です。自分の見た電車男はどんなものか、同じものを見ても解釈がまったくちがう、パラレルワールドが存在することを認識することが意味を持ってくると思います。

 「観る電車男」と「参加する電車男」。数で言うと、前者が多く後者が少ないと思います。後者が書籍と映画で延べ200万人と言われているのに対し、前者はインターネットを積極的に利用する一部のひとに限られていると考えます。ゆえに、両者の摩擦はそう大きくはならないでしょう。しかし、それは確実に存在します。両者の橋渡しをする方法を模索することは、少なくともぼくにとっての課題のひとつとなるでしょう。
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